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早朝の黒姫高原の雑木林の中をふらふらと巡っていたときのことである
林の中にロッジがあった。個人の別荘にしては立派だなぁぁ。そのまま通り過ぎようとした時に案内板を見つけた。営業時間、定休日..あれれ、店のようだ。玄関の扉をよく見ると「蕎麦ふじおか」と書いてある。どうやら蕎麦屋さんのようだ。正直なところ戸隠や妙高で、これはという霧下蕎麦に巡りあったことはない。ひょっとすると、と、多少のスケベ心もわき、周辺を撮影した後、小腹も空いてきたので、さきほどのロッジに戻ってみると..あれまぁ、行列が出来ている。あわててお終いに並んだ
行列している人達の話を聞くとはなく聞いていると、どうやら雑誌に紹介されていたらしい。やがて初回の客が食べ終わり、二巡目の僕等は案内された。一度に店に入れる客数は18名程度のようだ。着席してメニューを見ると「せいろそば」、「そばがき」「そばぜんざい」の3種類しかない。僕は「せいろ」と「そばぜんざい」を注文してみた
出てきた「せいろ」は、少し緑がかったきれいな色の蕎麦だった。その隣に野菜の小皿と漬物がそえられていた。まず蕎麦を食べてみる。小淵沢の萬吉よりは、少し柔らかめだけど、風味も味も、ものすごく良い。そして美しい小皿に盛られた野菜を一口ほおばった瞬間、店の主人のコンセプトがわかった。ここは蕎麦を食べることが目的ではなくて、極楽のランチタイムを過ごす場所なのだと。まず野菜のレベルが極めて高い。昨今まずい野菜しか売られていないスーパーマーケットの食生活と比較して、ここの野菜の品質は素晴らしい。そしてその品質をきちんと引き出している料理の技も、なみなみならぬものがある。そばぜんざいも、上品な甘さのあずきの中にソフトな噛みごたえの大きなそばがきがどんと入り、香りが実に芳醇。これも絶品だ。僕は絶品という言葉は本音として好きではなく、普段、まず使うことはないのだが、このふじおかのメニューは絶品という言葉しか思い浮かばなかった。正直、カルチャーショックを受けた
この感動をカミさんにも伝えたいと、翌年、再訪してみた
前回よりもかなり早い時間に訪れたにも拘らず、すでに長い行列が出来ていた。開店までに1時間はあるだろうか。行列が大嫌いな僕ではあるが、今日の目的はこの店だから、仕方ない。結局前回と同じ、二巡目で入れた。その日は僕等が最後の客。入れるだけでもよしとしよう
前年は奥様もいらっしゃったが、今回はご主人お一人で店を切り盛りされていた
前回食べられなかった「そばがき」も注文してみる。僕は2回目の訪問ということもあり、多少心の余裕もあったのか、店内を眺めるゆとりをもてた。そして気づいた。BGMで流れているステレオの音質が半端ではないのだ。無伴奏のハーモニカソロがかかっていたのだが、そのハーモニカの輪郭が凄い。決して大きな音量で再生されているわけではないのに、存在感がなみたいていではない。僕はプロのサウンドエンジニアだから、そのレベルは理解できる。コンパクトなスピーカーはイタリアはソナス・ファベールのものだった。このスピーカーを鳴らすには選び抜かれたアンプやCDプレーヤーでなければならない
食後、客も僕達をのぞいていなくなり、今日の営業も終了。そこでご主人にBGMの音質の素晴らしさを伝えると、オーディオルームに案内してくれた。そこには想像通りの超高級アンプやCDプレイヤーが鎮座していた。しかし経験的に述べると、これだけの機材を揃えても、なかなかこの音質を再生することは難しい。そこでそのことも伝えると、ご主人は満面に笑みを浮かべて「電源がきれいなんですよ」と述べられた。な〜るほど、僕は全てを理解した。電源がいかに重要であるかは誰よりも把握している。というよりも、質の良い電源を確保することが、サウンドエンジニアのまずの仕事だからだ
雑木林の周りには家もない。まして工場もない。だから電信柱から伝わる電気には汚れたノイズは殆ど含まれない。まさにオーディオマニアにとって理想的な電源だったのだ。三重は松坂から、この黒姫に育つそばの品質に惚れて移住し、観光地の蕎麦店や昨今のラーメンブームで、いかにもというオーディオ機器でJAZZを流す、ファッション的経営とは一線を画す。決して営利が第一の目的ではなく、食事を「もてなす」ということに情熱を注いでいるご主人の生き方そのものが、店のBGMでさえ、手をぬかない完璧な演出創りに成功している。僕はふじおかに多くのことを学んだと思う。感謝している
ちなみに無伴奏のハーモニカは崎元譲の「ハーモニカの芸術」というアルバムだった
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